ダイコンの雑記帳

くだらないことをつらつらと.

人が死に向かうということ

2021年3月22日、祖母がこの世を去った。1週間ほどったった今、自分の心の中で祖母の死を受け入れるために、祖母がホスピスに転院してからの約7週間を自分なりに振り返ろうと思う。そして祖母が亡くなってから葬儀が終わるまでのことも書き記しておく。

転院してすぐ

思えば祖母は比較的ゆっくりとした経過をたどっていた。転院前は余命1週間ほどではないかと言われていた。しかしホスピスに入ってからは自宅で過ごしていた時のように急に吐血することはなかった。

祖母には週に2、3回ほど会いに行っていた。これは病院側の決まりで、1日に2人1時間までと面会時間が決まっていたためだ。転院してすぐの1週間、祖母はご飯も3食食べられていたようだった。ただ、ホスピスでは安全のために一人で歩くことは許されていないため、移動の際は看護師を呼ばなければならなかった。このために1日のほとんどはテレビを見て過ごしていたようである。私や家族が会いに行った際には車いすに乗って病院内を見て回ったりもした。

2週目。1週目と比べてあまり体調に変化はなかったように思う。毎日テレビしか見ないのも退屈だというので、家からいくらか本と祖母の好きなクラシックの曲が入ったCDを持って行った。ただ本人は活字を読むのそれだけの気力はなかったようで、あまり本は読まなかったようだ。以前はたくさん本を読む人だったのだが、それだけ体力が落ちていたのだろう。2週目も祖母の部屋を訪れるたびに車いすで院内をまわった。天気がいい日は少し外に出たりもした。

誕生日以降

3週目。祖母が85歳の誕生日を迎えた。父と母は何とか誕生日は迎えさせてあげたいと思っていたようだ。当日私は行くことができなかったが、両親と院内の看護師さんたちに祝ってもらったようで大変喜んでいた。しかしこの週くらいから食べたものをもどすことが多くなった。誕生日の日もケーキをもどしてしまったらしい。吐くのにも体力を使うし、つらいことではあるが、体力をできるだけ保つためにも祖母は頑張って食べていた。もともと味付けの濃い食事が好みだった祖母は、病院食はおいしくないと常々ボヤいていたが。

4週目。車いすに移動するのが難しい日が増えてきた。私が行った日のうち1日は体調がよかったため、祖母を車いすに乗せて病院の庭にある梅の花を見に行った。また、病院外の外のにも行って花を見た。

5週目。祖母が寝たままで過ごすようになった。部屋の景色はずっと変わらなくて退屈だろうと思ったので、北野天満宮で撮った梅の写真を持って行った。祖母はきれいだと言って大変喜んでくれた。そのほかにも絵を持って行くなど、祖母がなるべく退屈しないようにとみんないろいろ工夫していた。

6週目。3月に入って桜が咲くところが増えてきたため、桜の写真を色々なところで撮って持って行った。祖母は実際に桜を見たいと言っていたが、病院の周辺ではまだ咲いていなかった。このころになると病院に会いに行っても祖母が寝ていることが多くなった。しかし行くと起きてくれた。ご飯も3食は食べていなかったし、食べる量もだいぶ少なくなっていたようだった。水分をとりすぎもよくないということでお茶の代わりにかき氷やアイスを少し食べるということをしていたが、祖母は甘いアイスが美味しいと言ってどんどん食べていた。

最後の日々

7週目。祖母に会いに行ってもなかなか目を覚ましてくれないことが多かった。また、話す言葉もあいまいになっていて、耳を口の近くに持って行かないと聞き取れないことが多かった。7週目も撮った桜の写真を持って行ったが、どのくらいわかってくれたかは不明だ。起きた際にはアイスが食べたいと言って、私が病院内の冷凍庫に取りに行っていた。肝性脳症というのが進行していたようで、ぼーっとしていることが多かった。

土曜日。父と叔母が会いに行ったのだが、このとき祖母は、返事くらいはしっかりできたそう。桜を見に行きたいかと聞くと、行きたいと言ったので、看護師さんの助けを借りて病院の庭にある桜を見に行ったそうだ。静かに、じっと桜を見ていたらしい。

日曜日。祖母の容体が悪くなっていつどうなるかわからないということだったので、急遽祖母に会いに行った。病院につくと、肝性脳症の影響で混乱状態にあったのか、手足をバタバタさせてうなっていた。しばらくして落ち着いたのだが、再びせん妄の症状が出て、それの繰り返しだった。なにかを伝えようとしているようだったが、それがわからないのがつらかった。病院を去る少し前に祖母は落ち着いて、目を開いて私と、一緒に来ていた父のことを見てくれた。祖母が寝たのを確認してからその日は帰った。病院からは早ければ今晩ということも考えられると伝えられた。

月曜日早朝。いよいよ祖母が危ないと病院から連絡を受けて、父の車に家族で乗って病院に行った。祖母は浅い呼吸を繰り返しながら寝ているだけで反応は返してくれなかったが、手をさすったり、呼びかけたりした。病院の規定で両親以外は15分までの面会と定められていたため、すぐに病室を出なければならなかった。最後に祖母へこれまでの感謝を伝えて、病室を出た。握った手は握り返してくれたと思う。

家に帰ってからしばらくして、9時過ぎに両親から連絡があって、祖母が亡くなったことを知った。

そのあと

そのあと、月曜日の内に祖母は家に帰ってきて、仏間で寝ていた。月曜日の夜は祖母の周りを家族と叔母と囲んで、思い出話を色々とした。祖母はとても綺麗な、安らかな顔で眠っていた。

火曜日、昼頃に祖母は棺桶に入って、その夜自宅で通夜をした。火曜日の夜もお棺に入ったまま祖母は家にいて、水曜日の朝、祖母は寺に運ばれてお葬式があった。お葬式のあと祖母は火葬場に運ばれて、つぎにあったのは祖母が焼かれてからだった。火葬場は想像していたよりもずっときれいで、骨壺に骨を入れる時も匂いもしなかったため、どこか現実でないような気がした。

家族が死に向かうということ

祖母は私が生まれたときから家にいて、それから19年間同じところで過ごしてきた。そんな人がはじめて亡くなった。転院してから亡くなるまでの7週間ちょっと、祖母はだんだん動く気力もなくなって、食べる量も減って、口数も減っていった。そうやって死に向かっていった。

先週までできていたことができなくなるということがどのくらい怖いことなのか、僕にはわからないが、祖母は常に自分がこれからどうなっていくのか知りたいと言っていた。祖母の性格上、実際のことを言われればとても落ち込んでしまったかもしれないけれど。私が祖母に会いに行ったことで、少しでも祖母が不安を忘れられていたなら、良かったと思う。

お通夜やお葬式などは、よく人が泣いている光景を思い浮かべる。しかし結局、私はお通夜でもお葬式でも、祖母の骨を見ても泣くことはなかった。私は、心の準備ができていたため、泣かなかったのだろう。祖母の経過を見ていたので、そろそろ危ないだろうということは分かっていたし、家族とも、後悔しないためにいま祖母のためにできることをやると決めていた。以前は祖母が死んだら悲しくて泣くんだろうなと思っていた。悲しくはあるが泣かなかった。それに、泣くことだけが弔いではない。亡くなった人を思い浮かべることこそが大事なのだと思う。だから私は今日も、祖母の祭壇に手を合わせよう。四十九日が過ぎて祖母が天国に旅立っても、祖母との思い出を大切にしたいと思う。