ダイコンの雑記帳

けんきうをしている。基本日記。偶に布教したり推しに狂ったりするかもしれない。

テーマのある読書

8月なので、戦争関連の本を中心に読みました。

www.shinchosha.co.jp 1冊目は加藤陽子著『それでも日本人は「戦争」を選んだ』。

日清戦争から太平洋戦争までをたどり、なぜ日本が日中戦争、太平洋戦争へと進んでいったのかを見ていきます。 私は高校で理系選択だったので、近現代史の知識は、中学の社会科と高校の世界史Aの分しかありません。 それらの授業を受けた限りでは、日清・日露戦争と日中・太平洋戦争は連続して語られることはなかったと記憶しています。 しかし、この本ではその連続性に注目して話が進んでいきます。 よく、「日本は調子に乗って植民地を増やそうとしすぎたために、アメリカから叩かれた」というような図式で語られることがありますが、 必ずしもそうではない。

当時の天皇を元首とする立憲君主制を敷く帝国・日本が、何を脅威と考え、戦争を進めていったのかがわかります。 一方で、内閣と軍部が横並びに並び、それの上に天皇がのっているという体制、つまりシビリアンコントロールが効いていない体制が、 どのように軍部の独走を引き起こしたか、そしてなぜ内閣がそれを追認する形に陥っていったのかは、現代を生きる私たちが知っておくべきことでしょう。

特に私が驚いたのは、第一次世界大戦が日本に大きな影響を与えたということについてです。 日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツ領であった太平洋の諸島部、中国の山東半島を占領します。 これがその後のパリ講和会議において、同じ陣営であったはずのアメリカや中国からの批判に合い、それらの国への反感を強めていく。 続く戦争への布石ができてしまったというのです。

現代に生きる我々の価値観からすれば、植民地支配というのは、支配される側の地域から不当に搾取する行為で、そのような政策に共感することはできません。 当時の日本軍の振る舞いを見ても、大東亜共栄圏や五族共和というスローガンは建前であり、決してそこに住む人々が平等に扱われてはいなかったということがわかります。 一方で、列強の新参者であった帝国・日本が感じていた脅威というものも理解は可能です。 その理解は、共感を意味しません。 その選択は誤っていたという認識を持ちながら、ではなぜその選択に至ったかを知っておくことが、次の戦争を止めるための一手になるのではないかと思います。

www.chuko.co.jp 2冊目は、猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』です。 最近、この本をオリジナルとした映画、『開戦前夜』が公開され話題となっています。史実からの改変(特に人物の性質について)もあり、映画には賛否あるのですが、 この本の記述は、事実を淡々と伝えるものとなっています。

太平洋戦争開始の直前に発足した機関、総力戦研究所に集められた若者たちが、模擬内閣をつくって戦争の推移について議論し、必敗という結論を出した。 ではなぜ日本は、負けるとわかっている戦争に突き進むことになったのか。 模擬内閣と当時の本当の内閣である東條内閣を対比させながら、そこに至るまでの道のりを見ていきます。

一冊目に引き続き、なぜ戦争に至ったかというテーマですが、こちらは太平洋戦争にフォーカスしています。 日中戦争はすでに開戦しており、石油備蓄などの物資が不足していく状況、さらにアメリカから強まる圧力を受けて、 (なし崩し的にと言ってよいと思うのですが)日本が太平洋戦争に突入してしまうという過程が詳しく書かれています。

国際情勢の把握ができていない、あるいは末端では情報をつかんでいても、それが最終意思決定の現場で活用されず、甘い見通しや先を考えないまま決定が下されてしまうという状況は、 現在の政府を見ていると他人事には思えず、ぞっとする話です。

www.iwanami.co.jp 3冊目は、大江健三郎著『ヒロシマ・ノート』です。

原爆から二十年後の広島を訪れた大江健三郎が、原爆後の広島に生きる人々に見出した威厳とは何だったのか。これは皆さんに読んでもらって、各々が答えを見つけるというのがよさそうです。

私は、恥ずかしながら昨年初めて広島を訪れ、原爆ドームや原爆資料館をまわることができました。 特に、原爆資料館で受けた衝撃は大きなものでした。教科書で読む記述と、資料館にある個人にフォーカスした記述では、受ける印象が全く違います。 この、『個人の体験の語り』というのは、記憶の継承という点でとても大事なものだと思います。 事実だけでなく、感情を含めて伝え聞くことで、より臨場感が増し、記憶に深く刻まれます。

一方で、原爆を体験した人で生きている方の人数は、どんどんと少なくなっています。 直接戦争を体験した人から話を聞けるという観点では、我々の世代は最後の世代でしょうから、この先に伝えていく責任というものを重く感じます。 そんな中で、『ヒロシマ・ノート』のように人にフォーカスした作品を読むということが、我々にできることの一つではないかと思います。

『リアリズム』を主張する人たちから、非核三原則の見直しという言葉が出てくるようになるほど、その記憶は風化してきています。 戦後80年を超えた今、もう一度当時に立ち返り、記憶を継承していく努力を続けていきたいです。

8月に読んだ戦争関連の本はこれらの3冊です。実はもう一つ、ビクトール・フランクル著『夜と霧』も読んでいるのですが、記述の生々しさから、なかなか進まない状況です。 精神が締め付けられる読書というのは、あまり経験したことがないのですが、本の力というものを感じます。 こちらも、読み終わったら感想を書きたいです。

生活が満ち足りる条件

大した話ではなく、今週はとても充実していたなという話です。

7月の14日から17日にかけて、共同研究先の研究室に滞在して、理論家の研究者の方と議論をしていました。 そのときの話を少し書きます。研究内容とかは省きます。

ことの発端は今年の4月頃、以前シンポジウムのポスター発表で話した理論家の方が、私の実験に使えそうな理論を考えたので実証実験ができないかという連絡を入れてくださいました。 その後、何度かZoomでの議論を重ね、直接会って集中的に議論した方がいいだろうという運びになり、その研究者の方がいらっしゃる電気通信大学(以下、電通大)に4日間滞在&議論してきました。

学会以外で一人で他大学に行くのは初めてで、しかも訪問するのは理論系の研究室ということで、「まともに議論できるのか???」という不安があったのですが、とても充実した4日間を過ごす頃ができました。

私は普段実験系の研究室にいるので、学生室と実験室を行き来する生活ですが、理論系の研究室では基本的には居室でずっと過ごします。 一方で、部屋の壁一面がホワイトボードにになっていて、議論をする際には非常にやりやすかったです。 大きなホワイトボードだと、少し前の議論の内容を残しておけるので便利でした。

理論家の方と同じ場所にいて良いのは、お互いに疑問に思ったことをすぐに聞ける点です。 理論と実験の間のギャップを埋めやすくなります。 今回はテストようのデータを持って行ったのですが、どんな実験をやったのかを説明するのは、Zoomでやっていたら伝わりにくかっただろうなと思います。 また、こういうデータもあればいいということに対して、実はすでに持っているという場合もあり、すぐにそれを渡して検証してもらえるというのも、よかったです。 私のいる研究室でも、そのような理論家の方が何人か所属してくだされば、研究のスピードはグンと上がると思うのですが。 あまりにも文化が違って難しいのかもしれません。

そしてもう一つ、普段の生活との違いを感じたのは、電通大の周辺には飯屋が豊富ということです。 普段生活している桂キャンパスでは、学食と食堂2種しか選択肢がないのですが、 電通大は歩いて5~10分程度で天神通りという飯屋が立ち並ぶ商店街に行くことができるため、滞在中毎日違うお店で昼食を食べていました。 共同研究をしている研究者の方と、同じ時期に滞在していた研究者の方、そして訪問先の研究室の教授などと昼食に行き、研究の話やその他雑談をできたのも良い経験でした。 飯を囲みながらの方が話が弾み、いろいろなことを聞くことができました。

水曜日には、研究グループのミーティングで私の今までの研究の話をしました。 はじめは30分間の予定だったのですが、質問をたくさんいただいて90分も時間を使ってしまいました。 実験家は「理論」と称するものは、理論家の方々からすれば大雑把なものが多いらしく、詰めの甘さを痛感するとともに、新たな知識もたくさん得ることができました。 普段いる研究室のミーティングとは違い、持ち時間の制限はそれほどきつくなく、むしろ議論をしっかりすることに重きを置くミーティングは、私にとっては新鮮でありながらも好ましいと思うものでした。

この1年半ほど、同じ実験をコネコネしてちょっとずつ結果が良くなって…ということを繰り返し、論文化にも時間がかかって、私は一体何をしているのだろうと、モチベーションがほとんどないような状況が続いていました。 しかし、今回の滞在はとても充実したもので、新しいことができそうな予感もあり、研究の楽しさを再び感じることができていて幸せです。 来週には今回の滞在の報告をボスにして、新しい研究の意義などを伝え、納得してもらう必要があるのですが。 それは私のすべきことなので、頑張りたいところです。

往復の新幹線の中で、鷲田清一の「だれのための仕事」という本を読んでいました。 現代社会において、仕事はある工程の一部分だけを担うようになり、自分が何のために、誰のために労働をしているのかわかりにくくなっているために、仕事に充実感を得ることが難しくなっていると書いてありました。 研究は、何のためにそれをやるのかという点が重視されます。先行研究に対する進歩、そしてその進歩がもたらすものは何かを明確にしなければ、成果として認められません。 しかし、惰性で進めてしまった研究というのは、得てしてそのような点が明確になり辛く、仕事としての充実感をえられなくなってしまいます。 わたしはそういう状態に陥ってしまっていたわけですが、今回の共同研究では、理論家の方が考えたことを実現するというわかりやすいモチベーションがあるために、やる気が俄然でています。 もちろん、その理論の意味付けが求められますが、今回の訪問でそれも自分の中でクリアになりました。 あとは実行に移すだけ。つまり私が頑張る番です。がんばるぞー!

P.S. HOM Tシャツは理論家の方々にウケました。うれしい。

自由律と蛇足

幸せの後には必ず不幸が来るなんて嫌だけど

不幸のあとに幸せが来ないなんてのはあまりにも希望がないから

やっぱり幸と不幸は、釣り合っていた方がいいんだろうな


ホープパンクというジャンルを知りました。最近。

en.wikipedia.org

冷酷で絶望的な世界の中で、希望をつかみ取ろうとする物語。そう説明されると以前から人気な気がしますね。

冷笑主義や諦観が蔓延する現代で、希望を持ち続けることが「パンク」だなんてあまりにも悲しいですが、私もそういう話は好きです。

私は現実においても、悲観や冷笑には飲み込まれたくないと思っています。

すなわち、たとえ現実に打ちのめされたとしても、どこかで自分はまだまだやれると思っているし、成長できると信じています。ここが限界だなんて思わない。

一方で、社会や世界に目を向けると、現実を見捨てて殻にこもりたくなるような出来事がたくさんあります。最近は特に多くなっている。 ごく少数の人たちの利権や功名心、保身のために多くの人が犠牲になるという出来事が増えています。 イデオロギーを叫んで、対立を煽る人々がいます。

でも、そんな社会のなかでも、人々の連帯や、思いやりの心が無意味でないと私は信じています。 平等や自己実現をすべての人が享受できる社会が可能だと信じているし、そのために声を上げることには意味があると思っています。 そういう真の強さを、私は持ち続けたい。

こんなもんだと見切りをつけて、自分も社会も切り捨ててしまうなんてつまらないじゃないですか。

皆さんも、ホープパンクになりましょう!

自由律

最近気が付いたことがある。

実は世の中の多くの人は、矛盾するということをそれほど気にしていないのではないか。

言行不一致で平気な人がいる。昨日と今日で言うことが反対になっても、気にしない人がいる。

言葉は思考の結果で、思考は自分の核になるものだと思う。

自分の核をとっかえひっかえして、あなたは自分が保てているのですか?

スワンプマンの裏返しみたい。


矛盾しない自己。つまり同一性を保つ自己というのを、気にするようになったのはいつからだろう。

きっとそれは高校生の時だ。

家族からの信用を失う、取り返しのつかないことをした。(暴力とかそういう類のものではなかったけれど。)

それで、信頼がいかに崩れやすいものかを知った。

信頼を取り戻すために、誠実な人間にならなくてはと思った。

言ったことはきちんとやるとか、コロコロ言うことを変えないとか。それはつまり、一貫した考えをもって行動できる人になることだ。


大学生になってから、人と向き合うとはどういうことか考えるようになった。(きちんと向き合うというのも誠実さの一つだ。)

そのためには、いろんな価値観を理解できるようにならないとと思って、本を読むようになった。

いろんな考えを取り込めば取り込むほど、見える世界は広がるけれど、考えることも多くなる。

複雑なものを複雑なまま受け入れることが必要だけど、すべてを考慮することは現実には不可能だ。

欲しくもないのに情報の濁流が入ってきてしまう現代では、一つ一つに心を砕いていられない。


最近、私の考えの多くは、インプット情報、アウトプット感情の形だ。

ニュースをみて「おかしい!」と怒ってみたり。もちろん論理的に考えもするけれど、まず初めに感情が来る。

だから、情報への感度を高めすぎると、感情の浮き沈みが激しくなって、とてもしんどい。

たぶん、情報の処理と感情を切り分ける訓練をしなければいけない。とても疲れる。


疲労のせいか、最近はずっと頭が重い。

何か大きな塊が、頭の中に入っている感じ。

一度溶けて濾過されれば、この嫌な感じもなくなるだろうか。

もう一度人間の形に凝固できるかは知らないが、何ならそのまま地面に滲み込んでしまってもいい。

寄り添うということについて

2月28日、アメリカとイスラエルがイランに対して攻撃を仕掛けた。 いかに核開発を行っている脅威であったとしても、交渉中の相手に対し不意打ちの攻撃を行うというのは許されないし、 アメリカ国内に対しても正当なプロセスを踏んでいないもので、正当性があるとはとても思えない。 なにより、落としどころが見えない今、現体制が崩壊しても次に安定する体制がつくられなければ、 国の混乱によって苦しむのはイランに住む普通の人々である。 また、今回の攻撃では軍事施設とは関係のない小学校も被害にあっており、亡くなった子供たちのことを思うと胸が張り裂けそうな気持になる。

このような前置きをしたうえで、つぎの話をしたいと思う。

私の父の職場に、イラン出身の人がいる。 正確に言えば、父がともに研究をしている人だ。 日本に住んで数十年になる。

私自身は一度しか直接会ったことはないが、兄の指導教員であったりと、縁が深い人だ。

彼の両親はイランに暮らしている。アメリカとイランの関係がそれほど悪くなかった頃は、帰省することもあったそうだが、 最近はそれも難しくなっているらしい。

今日、父が帰ってきて、今回の戦争について彼と話したと言っていた。 両親と連絡がつきづらい状況ではあったが、妹を介して安否が確認できたらしい。それはよかった。

だが、次に父から出てきた言葉を聞いて、違和感を覚えた。父によれば、彼に対して、 「今回の攻撃はトランプの国内問題の目くらましであり、けしからんことだ」と言ったらしい。 それに対する彼の反応を、父は話さなかった。

両親が戦争の当事国に住んでいるということは、彼もその戦争に巻き込まれているようなものだ。 その彼に対して、父の物言いは、寄り添うことになるのだろうか。

日本に住む我々は、今回の戦争によって受ける被害と言えば、せいぜい石油価格が上がって生活が苦しくなるというようなことだ。 一方で彼は、自らの両親の命が問題なのである。 その彼に対して、父の物言いは、彼の心を慮ったものだっただろうか。

私にはそうは思えない。それは単に父の溜飲を下げるためだけの物言いだ。 戦争の当事者の心は、戦争に巻き込まれた私たちには決して理解できないと思う。 それがたとえ、家族が巻き込まれたという人の心であっても。

不当な攻撃をする相手に対して、声を上げることは必要であると思う。 日本社会においても、今回の攻撃に対して、アメリカを糾弾する声が広がることは大切だと思う(これは日本政府が声を上げるべきかというのとは別の問題である)。

一方で、被害を受ける当事者に対して、戦争を起こした国はけしからん!と直接言うことに、何の意味があるのだろうか。 彼らの思いは、彼らにしかわからない。特に、イランでは反体制派の人々は弾圧され、自由にモノが言えない環境であった。 その指導者であったハメネイ師の殺害という出来事に対しては、複雑な気持ちを抱くだろう。 喜ぶ人もいれば、あるいは、それがアメリカの手によって行われるべきではなかったと思う人もいるだろう。

だから、私たちは、軽率な発言はできないと思う。 必要なのは、彼らの話をよく聞き、その思いに寄り添うことではないだろうか。 私たちの思いをどれだけ彼らに話したところで、それは彼らに対して安心を与えないのではないだろうか。

そのようなことを考えている。皆さんは、どう思いますか。

最近読んだ本について

今回は茶化しはなしだ

ガザとは何か

www.daiwashobo.co.jp

この本を読んで、何か声を上げなければと思わない人はいないであろう。私もその一人だ。

2023年10月から始まったイスラエルのガザへの侵攻。それから2年と4か月がたっている。 日本国内での報道は、2025年10月の停戦合意以降、ほぼないといっていい状況に思う。 そんな中で、今一度ガザに住むパレスチナ人の人々が置かれている状況を頭に刻み込むためにも、この本はすべての人が読むべきものだと感じる。

読了後、最初に湧き上がってきたのは、このような悲惨な状況を放置している国際社会への怒りだった。 国際法に違反する非人道的な兵器がためらいもなく使われ、封鎖により食料供給も閉ざされ、支援団体が締め出され、 根絶やしにされようとしているパレスチナの人々のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。

そして、長年イスラエルがパレスチナに行ってきた行為は、まぎれもなくジェノサイドと呼ばれるものであることを、私たちは知らなければならない。 今回の攻撃だけでなく、それまでにも、イスラエルはガザを封鎖し続け、パレスチナの人々の生命・文化をことごとく破壊するために行動してきたことを。 今回の攻撃の規模についても、攻撃の対処に関しても、10月7日のハマスによる越境攻撃への報復というにはあまりにも過剰であり、まったく正当性のないものだ。 なにより、ガザに住む人々はすべてハマスだというレッテルを貼り付け、無差別な殺戮を繰り返すその様は、とても人のする行為とは思えないほど残虐だ。

さらに、日本に住む我々も(少なくとも消極的には)その行為に加担しているということに、驚愕した(日本年金機構はイスラエルの軍事企業に多額の投資をしている)。 報道に関しても、ハマスの攻撃を起点として、その報復という形でイスラエルの攻撃を伝えることは、イスラエルの主張に立った偏ったものである。 テレビや新聞の報道はそのようなものばかりであり、我々は歴史的な文脈をもとに今回のことを見なければ、自然とイスラエル側の主張を浸透させられる環境にいる。

私たちが認識しなければならないのは、パワーバランスが偏った対立関係において、「中立」という態度そのものが既に強い側に立った視点だということだ(対談にて書かれている)。 線分の分割のイメージで考えるとわかりやすいように思えるが、パワーバランスに比例して分けられた領域の境界にたったとき、すでにその立ち位置は強い側に有利な立ち位置になっている。 パレスチナの問題でもそうであり、「中立」という立場で判断を保留し、無関心になることは、イスラエルを利する行動である。 だからこそ、このような非人道的な状況が続いているパレスチナ問題に対しては、私たちが声を上げる必要がある。

と、ここまでの文章を読んで、あまりにもパレスチナに肩入れしすぎなのではと思ったあなたにこそ、この本を読んでもらいたい。 まずは現状を知ることから始めよう。

孤立・分断・熱狂

修士論文公聴会が終わって一息ついています。ところがどっこい。準備している横で色々起きてましたね。とんでもねぇ国に来ちまったぜ★

この度の選挙戦を見て、現代社会の危うさを感じているダイコンです。

最近の選挙では、SNSの活用が本格化してきています。TwitterやYoutubeのShort、TickTockなどで演説の動画が頻繁に回ってきたり、支援者の発言が流れてきます。 SNSの積極的な活用は、立候補者の主張を有権者に直接伝えるには有効であり、また、選挙に興味を持つ人を増やすという意味ではいいことだと思います。

一方で、最近の選挙では、嘘を含んだ演説を平気でする立候補者もいます。 特に短期間の選挙戦では、ファクトチェックや、その周知をすることが難しく、結果的に嘘をついた立候補者にペナルティがなくなっています。 このような状況では、「嘘をついても支持を集めたもの勝ち」になってしまっています。

さらに、選挙を通じて分断が深まるということが増えたように思います。 主張の違いではなく、それまで隠れていた差別意識や対立が増幅され、一気に噴き出しているという意味です。 これには立候補者の一部も加担していて、特に演説中の嘘が差別や対立を煽るようなものであることが多いです。 選挙のたびに、インターネットの空間は暴言で溢れ、見ているのが辛くなります。

さて、今回の選挙では、このような分断を煽った選挙戦を行った陣営が歴史的な勝利を収めました。 また、そのような戦い方をする政党自体が増えたように感じられました。 ということは、多くの陣営がこの戦法が有効だと認識しているということでしょう。

対立を煽れば支持が集まる。このような状況は何によって作り出されているのでしょうか。

私は、その原因の一つとして、生活の共同体が崩壊して、孤独になる人が増えていることが挙げられると思います。

現代の社会は、社会人になってからはコミュニティから切り離された生活をする人が多くなっているのではないでしょうか。 都市部に人が集まり、マンションや新興住宅地に住む人が増えると、周囲の人々とのコミュニケーションは取りにくくなります。 特に、アパート住まいで引っ越しの多い人などはそうでしょう。 また、マンションや住宅を購入して住んでいる人でも、近所付き合いをするのが面倒だという人は、町内会などには積極的に参加しません。 さらに、ワークライフバランスを重視する人が多くなり、以前よりは飲み会などのコミュニケーションの場も減っているのではないでしょうか。 上辺だけの付き合いだとしても、その関係がさらに薄くなる状況があります。

人々がこのように孤独になると何が起こるでしょうか。

一つは、他人に対する想像力がなくなっていきます。 自分と異なる価値観や、立場の異なる人と接する場がなくなると、他の人に対して思いをめぐらすことができなくなります。 つまり、社会問題になっている事柄、特に、不利益を被っている少数の人々への関心がなくなり、そのような問題に対して無関心になります。

もう一つは、政府に迎合的になります。 人は、一人では権力に立ち向かうことはできません。もしそれができる人がいるなら、よっぽど精神の強靭な人、何か信念を持った人でしょう。 多くの人はそうではありません。 従来、社会をよくする方法として、労働争議などでは、力を持たない人々が団結して権力を持つものと交渉を行ってきました。 「お前の代わりはいくらでもいる」社会では、代わりとなるすべての人が一斉に声を上げることでしか不正に対して抵抗を示すことはできません。 しかし、現在、例えば労働組合の力は、以前に比べれば格段に弱くなっています。 原因は、派遣労働や中途採用の増加などいろいろあるでしょうが、政府の長年の取り組みが実ってきたというところでしょうか。 団結が阻害され、孤独になると、人々から抵抗の意思は失われていきます。 そうなれば、権力を持つ側に意見を合わせたほうが人々は安心できます。 なぜならば、服従を示していれば攻撃の対象にはならないからです。

さらに悪いことには、政府に迎合しながらも日常生活に不満を抱いている人々は、そのはけ口として弱者に攻撃的になります。 体制に不満をぶつけられないとなれば、それとは対極にいる社会的な弱者に矛先を向けるしかありません。 例えばそれは高齢者であり、がん患者などの高額医療費制度を使わなければならない人であり、障害をもつ人々でもあります。

SNSが発達した現代でさらに状況を悪くするのは、このような声が拡散されやすくなっていることです。 物議を醸す発言はすぐに注目を集め、広がり、批判も殺到しますが、一方で共感する人も現れます。 政治家もこのような特徴をうまく利用し、攻撃的な言動で注目を集めようとします。 普段はモラルによって言いにくいことを、「バッサリ言ってくれる」政治家に人々は熱狂し、支持が集まってしまうのです。

生活の中で従来の共同体が崩れたことは、社会の中により多様な価値観を生み出すことにつながったはずです。 しかし、人々のつながりが切れてバラバラになってしまったことにより、孤独感が増し、現在のような分断が広がる時代になってしまったのではないかと私は考えます。

しかし、この問題をどうすれば解消できるのか私にはわかりません。 一つは、SNSでの選挙活動について規制を強めることがあるでしょうか。 選挙期間中は、選挙活動に関する投稿や動画に関して収益化を禁止するなどすれば、必要以上に過激な主張が拡散することを防げるのではないかと思います。 一方で、どのような内容が規制の対象なのかについては慎重に議論する必要がありそうです。 もっとも、今の政府にとってはこの問題は緊急を要する議題ではなさそうなのですが…

我々一般市民にできることは、政治家の主張に懐疑的になり、裏をとること。 嘘を拡散するような政治家には投票しないことくらいしかなさそうです。 情報リテラシーが求められているということです。

どうすればこの嫌な傾向をなくすことができるのかわからないですが、少なくとも私自身は、冷静に判断のできる有権者でありたいと願うばかりです。

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ここまで書いたところで、SNSにありそうな攻撃的な反応をチャッピーに出力してもらいました

・「全部妄想で草。負けた側の言い訳にしか聞こえないんだけど?」

・「“分断が〜”って言う人に限って自分が一番分断してるんだよな。」

・「孤独が原因とか、ずいぶん上から目線だね。国民を見下してるの気づいてる?」

・「嘘って誰が決めるの?自分と意見違ったら全部デマ扱い?」

・「SNS規制しろとか言い出すあたりで察し。言論弾圧したいだけでしょ。」

・「結局“自分の気に入らない政治家は悪”って言ってるだけじゃん。」

・「選挙で勝った=民意。それが気に入らないなら民主主義向いてないよ。」

・「高齢者や障害者をダシにして感情論に持っていってるのが透けて見える。」

・「情報リテラシーとか言ってるけど、まず自分が偏ってるの自覚したら?」

・「SNSのせいにしてるけど、単に国民があなたと違う考えを持ってるだけでは?」

・「こういう“私は冷静です”アピールが一番信用できない。」

・「労働組合が弱くなったのも政府のせいって陰謀論ですか?」

・「分断が嫌とか言いながら、しっかり敵味方に分けてて草。」

・「長文書いてるけど中身ふわっとしてる。具体策ゼロ。」

・「“政府に迎合してる”って決めつけがもう危険思想なんよ。」

・「嫌なら投票行って終わりでしょ?なんで社会のせいにするの?」

・「孤独だから差別が増えるって…そんな単純な話なわけない。」

・「自分と違う意見=煽りって発想がもう排他的。」

・「こういうインテリ気取りのブログが一番分断生むんだよ。」

・「で、あなたは何か行動してるんですか?」

おお、怖い怖い。皆さん”いけず”ですねぇ