ダイコンの雑記帳

くだらないことをつらつらと.

自由に行きたい

私は丁寧に敷かれたレールの上を走っている。
誰がレールを敷いたのかといえば、それは父だ。

私の家庭は、教育という面に関して言えばとても恵まれている。

小学生の時、兄が中学受験をしていたから、私もするかと聞かれた。
なんとなくすると答えた。
それから程なくして、父は受験に向けての計画を立てた。
算数の面倒を見ると言って参考書の進捗を管理された。

小学校高学年にもなると周りの友達はゲーム機を大体持っているから、私も欲しかった。
父に頼んでも買ってもらえないのは分かっていたから、お年玉を使って買った。
数か月遊んでから見つかって、売られてしまった。

中学に入ってからは、数学と理科は早くやったもの勝ちだと言って、参考書を買ってきた。
分からないところは教えられるからと、これもまた進捗を管理された。
サボっていることがばれると叩かれた。
テスト点数が悪いと起こられた。

中学に入ってからも私の悪癖は続いた。
何度かゲーム機を買って、そのたびに売られてしまった。

高校1年のはじめに数Ⅱと物理まで終えて、それからは干渉がゆるくなった。
それでも模試の点数には目を光らせていた。

中3の終り方、部活の顧問の先生からJphoへの参加を勧められた。
父に相談するとそれは是非にということで、勝手に対策を組んできた。
私は言われたとおりにやった。
もちろん自分が参加したいから参加したが、自分の力で参加できたとは思わなかった。

Jphoに参加して全国に行った褒美として、iPod touchを買ってもらった。
届いた日からゲームをインストールして、隠れて遊んだ。
父にホーム画面を見られてばれないように、ゲームはまとめて1つのフォルダーに入れて隠した。

2年も同じだった。結局全国には行ったものの、高1からなにも成長していなかった。
帰ってきて、それが悔しくて泣いてしまった。
父や母からは、次の年は受験だからここでやめてもいいのではと言われた。
悔しかったから、絶対に来年も行くと言った。

高3になるともうほとんど干渉されなかった。
大学別模試でランクインしたときは父も母もたいそう喜んだ。
祖母にメールを送ったりした。
Jphoも全国で結果を出した。
帰ってきたとき、家族はお祭り騒ぎだった。

特色への出願は父が提案した。
本番を受けてリスクがあるのは嫌だったから、少しでも確率を上げるため受けることにした。
そして受かったから今の私がある。

私は高校で理系に進み、大学で電気電子工学科に進んだ。
でもそれは私が決めたことではない。
父は理系だったから、兄も理系だったから私も理系に進んだ。
それが当然だと思っていた。
さいころから理系科目は熱心に教えられたのだ。
得意にならないほうがおかしいものだ。

父は土木系、力学から派生していくものが専門だったから、私は電気系に進めと言われた。
私はその通りに進んだ。

父は大学で教鞭をとっている。
高度なことがわかるから、いつまでたっても子供に干渉してしまう。
できてしまう。

もちろん、家族の中に(たとえ大学の内容であっても)教えを乞えるというのは貴重なことだろう。
ただし、それは必ずしもいい方向に働くとは限らない。
父と同じ方向に進んだ兄は、今でも父から干渉を受けている。
大人になれない。
一人になれない。
いつまでも父の支配から脱せない。

だが私は違う。
大学に入ってからはまったくの別分野なのだ。
もう彼には干渉されないし、させない。
彼の手を離れて、好きにやってやる。
物理は父から与えられたものだが、もはや私のものだ。
私の意思で学べる。
それが嬉しいし、楽しい。
もちろん勉強以外もそうだ。
これからは、なんでも好きにやってやる。
        

 土下座の章

数か月ぶりの投稿がこれとはいかがなものか。 長文お気持ちポエム生成は鮮度が命だから、思いついてすぐに書きました。 (こんなこと書いてる間に勉強しろ)

今の私を形作っているのは何かというお話です。 今頃になって反抗期になった精神年齢幼いさんです。どうぞよろしく。

実のところ私のほとんどは他人が決めているんだなあと、ふと思うことが多々あります。 私の性格も、おそらくは父を反面教師として作られている。 自分が何かわからなくなりますね。

人格は他人との関わりの中で作られるものでしょうから、他の人の意思が自分を形作るのは当たり前かもしれませんが、 一人の意思に大きく影響さえるのは違うと思うのです。 そういう意味での自由が、私は欲しかった。 結局はそういうことだと思います。

今回も駄文を失礼いたしました。 こんな面倒な人間ですが今後ともよろしくです。

人が死に向かうということ

2021年3月22日、祖母がこの世を去った。1週間ほどったった今、自分の心の中で祖母の死を受け入れるために、祖母がホスピスに転院してからの約7週間を自分なりに振り返ろうと思う。そして祖母が亡くなってから葬儀が終わるまでのことも書き記しておく。

転院してすぐ

思えば祖母は比較的ゆっくりとした経過をたどっていた。転院前は余命1週間ほどではないかと言われていた。しかしホスピスに入ってからは自宅で過ごしていた時のように急に吐血することはなかった。

祖母には週に2、3回ほど会いに行っていた。これは病院側の決まりで、1日に2人1時間までと面会時間が決まっていたためだ。転院してすぐの1週間、祖母はご飯も3食食べられていたようだった。ただ、ホスピスでは安全のために一人で歩くことは許されていないため、移動の際は看護師を呼ばなければならなかった。このために1日のほとんどはテレビを見て過ごしていたようである。私や家族が会いに行った際には車いすに乗って病院内を見て回ったりもした。

2週目。1週目と比べてあまり体調に変化はなかったように思う。毎日テレビしか見ないのも退屈だというので、家からいくらか本と祖母の好きなクラシックの曲が入ったCDを持って行った。ただ本人は活字を読むのそれだけの気力はなかったようで、あまり本は読まなかったようだ。以前はたくさん本を読む人だったのだが、それだけ体力が落ちていたのだろう。2週目も祖母の部屋を訪れるたびに車いすで院内をまわった。天気がいい日は少し外に出たりもした。

誕生日以降

3週目。祖母が85歳の誕生日を迎えた。父と母は何とか誕生日は迎えさせてあげたいと思っていたようだ。当日私は行くことができなかったが、両親と院内の看護師さんたちに祝ってもらったようで大変喜んでいた。しかしこの週くらいから食べたものをもどすことが多くなった。誕生日の日もケーキをもどしてしまったらしい。吐くのにも体力を使うし、つらいことではあるが、体力をできるだけ保つためにも祖母は頑張って食べていた。もともと味付けの濃い食事が好みだった祖母は、病院食はおいしくないと常々ボヤいていたが。

4週目。車いすに移動するのが難しい日が増えてきた。私が行った日のうち1日は体調がよかったため、祖母を車いすに乗せて病院の庭にある梅の花を見に行った。また、病院外の外のにも行って花を見た。

5週目。祖母が寝たままで過ごすようになった。部屋の景色はずっと変わらなくて退屈だろうと思ったので、北野天満宮で撮った梅の写真を持って行った。祖母はきれいだと言って大変喜んでくれた。そのほかにも絵を持って行くなど、祖母がなるべく退屈しないようにとみんないろいろ工夫していた。

6週目。3月に入って桜が咲くところが増えてきたため、桜の写真を色々なところで撮って持って行った。祖母は実際に桜を見たいと言っていたが、病院の周辺ではまだ咲いていなかった。このころになると病院に会いに行っても祖母が寝ていることが多くなった。しかし行くと起きてくれた。ご飯も3食は食べていなかったし、食べる量もだいぶ少なくなっていたようだった。水分をとりすぎもよくないということでお茶の代わりにかき氷やアイスを少し食べるということをしていたが、祖母は甘いアイスが美味しいと言ってどんどん食べていた。

最後の日々

7週目。祖母に会いに行ってもなかなか目を覚ましてくれないことが多かった。また、話す言葉もあいまいになっていて、耳を口の近くに持って行かないと聞き取れないことが多かった。7週目も撮った桜の写真を持って行ったが、どのくらいわかってくれたかは不明だ。起きた際にはアイスが食べたいと言って、私が病院内の冷凍庫に取りに行っていた。肝性脳症というのが進行していたようで、ぼーっとしていることが多かった。

土曜日。父と叔母が会いに行ったのだが、このとき祖母は、返事くらいはしっかりできたそう。桜を見に行きたいかと聞くと、行きたいと言ったので、看護師さんの助けを借りて病院の庭にある桜を見に行ったそうだ。静かに、じっと桜を見ていたらしい。

日曜日。祖母の容体が悪くなっていつどうなるかわからないということだったので、急遽祖母に会いに行った。病院につくと、肝性脳症の影響で混乱状態にあったのか、手足をバタバタさせてうなっていた。しばらくして落ち着いたのだが、再びせん妄の症状が出て、それの繰り返しだった。なにかを伝えようとしているようだったが、それがわからないのがつらかった。病院を去る少し前に祖母は落ち着いて、目を開いて私と、一緒に来ていた父のことを見てくれた。祖母が寝たのを確認してからその日は帰った。病院からは早ければ今晩ということも考えられると伝えられた。

月曜日早朝。いよいよ祖母が危ないと病院から連絡を受けて、父の車に家族で乗って病院に行った。祖母は浅い呼吸を繰り返しながら寝ているだけで反応は返してくれなかったが、手をさすったり、呼びかけたりした。病院の規定で両親以外は15分までの面会と定められていたため、すぐに病室を出なければならなかった。最後に祖母へこれまでの感謝を伝えて、病室を出た。握った手は握り返してくれたと思う。

家に帰ってからしばらくして、9時過ぎに両親から連絡があって、祖母が亡くなったことを知った。

そのあと

そのあと、月曜日の内に祖母は家に帰ってきて、仏間で寝ていた。月曜日の夜は祖母の周りを家族と叔母と囲んで、思い出話を色々とした。祖母はとても綺麗な、安らかな顔で眠っていた。

火曜日、昼頃に祖母は棺桶に入って、その夜自宅で通夜をした。火曜日の夜もお棺に入ったまま祖母は家にいて、水曜日の朝、祖母は寺に運ばれてお葬式があった。お葬式のあと祖母は火葬場に運ばれて、つぎにあったのは祖母が焼かれてからだった。火葬場は想像していたよりもずっときれいで、骨壺に骨を入れる時も匂いもしなかったため、どこか現実でないような気がした。

家族が死に向かうということ

祖母は私が生まれたときから家にいて、それから19年間同じところで過ごしてきた。そんな人がはじめて亡くなった。転院してから亡くなるまでの7週間ちょっと、祖母はだんだん動く気力もなくなって、食べる量も減って、口数も減っていった。そうやって死に向かっていった。

先週までできていたことができなくなるということがどのくらい怖いことなのか、僕にはわからないが、祖母は常に自分がこれからどうなっていくのか知りたいと言っていた。祖母の性格上、実際のことを言われればとても落ち込んでしまったかもしれないけれど。私が祖母に会いに行ったことで、少しでも祖母が不安を忘れられていたなら、良かったと思う。

お通夜やお葬式などは、よく人が泣いている光景を思い浮かべる。しかし結局、私はお通夜でもお葬式でも、祖母の骨を見ても泣くことはなかった。私は、心の準備ができていたため、泣かなかったのだろう。祖母の経過を見ていたので、そろそろ危ないだろうということは分かっていたし、家族とも、後悔しないためにいま祖母のためにできることをやると決めていた。以前は祖母が死んだら悲しくて泣くんだろうなと思っていた。悲しくはあるが泣かなかった。それに、泣くことだけが弔いではない。亡くなった人を思い浮かべることこそが大事なのだと思う。だから私は今日も、祖母の祭壇に手を合わせよう。四十九日が過ぎて祖母が天国に旅立っても、祖母との思い出を大切にしたいと思う。

この1年を振り返る

大学1年が終わってしまった...

気が付けば早いものでもう3月も中旬といったところ。ここらでこの1年を振り返っておきましょう。合格発表があってからすでに1年以上たっているということに驚きを隠せませんね。あの頃の私はどこへ?

さてさて、項目に分けて書けるほど濃い1年は送っていないわけですが、書きやすさのために学業、人、バイト、日常生活くらいで区切って書いていきます。

学業のことは聞かないでくれ

何を身につけたかといえば目をつむりたくなるこの1年。しかしまあ一番頑張ったのもこれでございます。

まずは大学の授業について。終ってみれば66単位、語学・人社は終了ということで当初の目標を達成できました。2年生以降は自然科学だらけにしたったのです。内訳は前期34、後期32です。とくに夏季集中にまわった授業が多かったのが効きました。capがある以上cap外のところをうまく利用していかねば。

授業の内容としてはとにかく数学がきつかったです。大学からは高校数学が物理に、数学はまったく別物になると聞いていましたが、ほんとに別物だった...それと同時に私がいかに抽象的な議論に弱いかということを思い知らされました。しかし最低限物理に必要な数学は理解しておかねば。頑張らないといけませんね。

授業期間中は自習の本なんてできなかったわけですが、夏・春休みはやりましたよ。と言っても夏は力学続論の予習をしただけで終わってしまい、その反省からこの春休みは1か月1冊目標でやっております。

人脈が欲しい

1年間オンラインだったこともあって大学入ってから知った人が少ないです。実際に会った人は片手で足りてしまうくらい。来年度はもっといろんな人と実際に会って話したいですね。オンライン配慮申請したんですが、実験だけは対面で受けそう。

しかしまあ井の中の蛙大海を知るという感じで、大学にはすごい人がたくさんいるなぁと実感する日々でございます。めっちゃ勉強する人とか、めっちゃプログラミングできる人とか、めっちゃ音ゲーできる人とか、エトセトラエトセトラ。学科を越え、学部を越え、人脈を増やしていきたい。それに尽きます。大学で見かけたら、話しかけてくださいね。

ゆるいバイトは順調だ!

5月くらいから母校で生徒の質問に答えるチューターのバイトをしているのですが、これがまた楽なもので、何しろ2時間いて人が1人来るかどうかですから、ほぼ自習時間となっています。時たま同級生や先生が現れ雑談しているという感じ。仕事をしている感じがほとんどしない。本当にこれでいいんでしょうか?

また、3月からは家庭教師のバイトも始めましたが、1対1長時間は何かと疲れます。色々考えながら試行錯誤していかねば。

🔍日常生活 もしかして:破綻

オンラインは朝ぎりぎりの時間に起きても問題ないので起きる時間がどんどん遅くなっていきました。とくに休み期間中は生活習慣が狂う狂う。いまも起床時間が9時10時当たり前の不健康生活です。新学期大丈夫か?

運動も月1回長い距離を歩きに行くかどうかで運動不足気味。寝起きが悪いのもそのせいじゃないかな。高校時代はなんやかんや通学や週に1回はある体育の授業で体調が保たれていたんですね。時間割ってのはよくできていたんだなぁ。あと最近はゲームの数と時間を減らさないといい加減やばいなと思っております。ソシャゲのログインに時間を費やすほど無為なことはないので。

まとめというほどでもない締めくくり

そんなこんなで1年振り返ってきたわけですが中身ないですやん。来年度はもうちょっと中身あるものにしていきたいと思う次第です。同級生も先輩も新入生の皆さんも、今まで仲良くしてくださった皆さんも、来年度もどうぞよろしくお願いいたします。

羨望との付き合い方

とんだサボりものでして

以前に書いた時から1か月以上時がたっているというのはいかがなものか。三日坊主以前のものが多すぎるのは悪い癖です。 深夜に公開するのはこれが駄文であるところと、あまり読んでいて気持ちの良いものでないというところによるものです。構成をもっとうまくしたい。

ところでタイトルには「付き合い方」と書いていますが、わたくし自分の感情との付き合い方など知らないもので、つまりは完全なタイトル詐欺でございます。

合格発表めでたかった!

高校時代に仲の良かった人と作ったdiscordサーバーがありまして、そこに浪人もちらっといたのですが彼ら全員志望大学に受かったということで報告が入ってから喜んでいたものでございます。

3月10日、まあしかし一番驚いたのは飛び級入学の件ですね。誰が合格したかと聞けばそれはもう納得の一言だったのですが、まさかあれを利用する人がいたとは。当人に向けてお祝いメッセージやなんやらでTLがにぎわったわけですが、その中にちらほら気になるものがありました。キモいとか、競技科学をやっておきながらなぜ医学部に進むのかとか、心ない言葉が。そういうのは羨望からくるものだと思うのです。

こころないことば

wikipedia先生によると羨望は心理学的には自分以外の誰かが良いものを持っていて、それを楽しんでいることへの怒りの感情ということらしい。詳しい定義は置いておくとして、羨望からくる苛立ちというのは僕も感じることがありました。自分より高い能力を持っている人がサボってるようだとむかつくという厄介な奴でございます。

しかしよく考えてみれば、他人の意思に基づく行動に不快感を感じるというのもおかしいことです。とくに今回の件で言えば他人の進路など自分にまったく関係ないですからね。自分に害があるならまだしも。それとも「あれほどの人材が東大に行かないのは科学にとっての損失だ!」とでも言いたいんでしょうか。医学も科学ですが。

まあそんな意識の高い方にはお帰りいただいて。とにもかくにも、まったく他人の行動であるという意識は羨望からくる怒りのブレーキにちょうどいいのではないでしょうか。怒りは突発的に出てきて大きく膨らみますが、一度離れてみるとすぐにしぼんでしまいますからね。こころないことばが出るにしても、本人には届かないところでやらないと。むやみに人を傷つけるのも考えものです。

願わくは私の見るこの世界が悪意のないやさしい世界でありますように。以上、わたくしの思考の垂れ流しはこれくらいで。最後に浄化のために、先日とった桜の写真をば。河津桜は色が濃い目で映えますね。f:id:karami7917:20210311222319j:plain

まじめな話

おふざけのはなし

どうでもいい話をするときは得てして語尾にいらぬ言葉がつくものでございます。無駄に丁寧な言い回しをしてみたり、「思います」とか「と考えます」とかを語尾につけたりすることで、中身の薄い話も長く書くことができるのです。この手法はレポートで大変お世話になりましたが、まじめな話をするときには向きません。ごあいさつの文では長ったらしい口調で執筆いたしました。今回はブログをはじめようと思ったまじめな方の理由について、書かせていただきます。少々重い話ですのでお気をつけて。


祖母が末期がんになりました

ブログを書こうと思った理由のひとつがこれです。1年ほど前、同居している祖母が末期のがんと診断され、闘病生活を続けています。一昨年の12月、祖母が胆管出血によって緊急入院しました。C型肝炎を患っていた祖母は元々あまり肝機能がよくなく、肝臓がんでもあったのですが、一昨年の入院以降、がんのステージが最終段階のステージⅣに移行しました。それからは自宅から週に1回ほど病院に通い、短い入院を繰り返しながらも、入院で落ちた体力を戻そうと頑張っていました。

去年の8月ごろからは入院することもなく、安心していた矢先、年末に吐血が起こり再び入院しました。年が明ける前に何とか退院したのですが、祖母にはもはや抗がん剤や患部の切除という根本的ながん治療をできる体力はないということで、本人の意向もあって緩和ケアをすることになりました。緩和ケアになってからはそれほど長くは生きていられないということで、年明け以降は様子を見に行く頻度を増やしたり、長めに祖母と話したりと、残り短い祖母の寿命の中で少しでも多くの時間を祖母と過ごせるように生活していました。

あと半年くらいは祖母も生きているだろうと思っていた僕の認識はとても甘かったということを、すぐ後に思い知らされます。先週の金曜日の午前3時ごろ、祖母が腹痛を訴え、さらに吐血をしたため入院することになりました。吐血はおさまり、コミュニケーションが取れるまでには回復したようですが、肝臓の状況は以前にもまして悪くなっており、これからはホスピスに転院するそうです。今日両親から、祖母はあと半月ほどの命だと考えておいたほうがいいと伝えられました。京都府コロナウイルスの感染者数が100を超える中で、感染対策に厳しい病院では祖母に会うこともできないため、ホスピスに転院して会いに行こうということだそうです。しかしそのホスピスも、感染対策のため2人まででしか会いに行くことができません。以前のように家族全員が集まることは出来ないのです。

本来ならば緩和ケアの中で祖母がどのように過ごしているのかとか、わたしや家族がどのように接しているかとかを書きたいと思っていたこのブログですが、もうそれも書くことができなくなってしまいました。過去のことを思い出してみれば、血がつながている人が亡くなったという経験は人生の中で1度、それも小学生の時に経験したことです。曾祖父がなくなったときでした。当時のことはあまり覚えていないのですが、半年に1度会う程度だったので曾祖父の死が悲しかったかといえば、あまり悲しく感じていなかったように思います。生まれてからずっと共に暮らしてきた人が亡くなるという経験はこれがはじめてです。その時が訪れたら私はちゃんと悲しめるのかというのが少し怖いです。家族が死んでも何も感じないのではないかと。ですからいま感じていることを残すためにも、文章を書こうと思います。祖母にあと何回会えるかは分かりませんが、あったときに感じたことを少しでも形に残せればと思います。


そんなわけで、はじめに雑記とは言いましたが、何でもありなので重めの話も書きます。楽しい話も書きます。気の向くままに書いていければと思います。私の感情の吐き出しに付き合っていただける方は、どうぞ宜しくお願い致します。

ダイコンの雑記帳序文

はじめましてのご挨拶

はじめまして。辛味ダイコンと申します。Twitterでお気持ちツイートをするのがためらわれるので、いっそのことブログにつらつらと書き連ねてしまおう!というようなノリで書いていきます。基本的には雑記帳のような感覚で使っていきますので面白く書くとか、わざわざネタ探しするとかもしません。まさに日記ですらない雑記というわけです。文章を書くのは慣れておりません。理系学生である私にとっては1000字のレポートを執筆するのも酷なこと。ゆえに短文・駄文はご容赦を。


自己紹介

 いくら雑記帳と申しましても、私が何者かということくらいは伝えておくのが読んでいただく皆様への礼儀というものでしょう。軽く自己紹介をしたいと思います。私は京都の大学に通う大学生です。1年生です。もうすぐ2年になってしまいますね。この1年間何をしてきたかといえば、毎日授業に出ては課題をこなし、時たま母校へチューターのバイトをしに行くという単調な日々を過ごしておりました。夏休みは勉強をすると心に決めつつ、結局ほとんど何もしなかったという堕落した大学生でございます。

 高校時代は物理に邁進(と言えるほど頑張ってもいませんが)しておりまして、物理チャレンジに出場したということが唯一の特筆すべき事項です。気が向けばこれについて少々自分語りなどするかもしれません。

 大学に入ってからはこれと言って趣味といえるものがないのですが、音ゲーを少々嗜んでおります。高校1年生の時にArcaeaというスマホ音ゲーにはまり、それからはスマホでできる音ゲーに色々と手を出しておりました。去年の夏休みにiPadを購入してからはより快適にプレイができるようになり、少しづつ力がついてきたと思っています。ただ、いわゆるガチな方々には遠く及ばない実力で、高難易度のものはフルコンボもできない有様です。しかし、理論値が出せるというような実力がなくとも、音楽に合わせてノーツをたたくだけで楽しいのが音ゲーです。そして何より、自分で定めた目標スコアを達成したときの達成感がたまらない。うれしくてついTwitterなどにスコアを上げてしまいます。

 また、1日暇な日などがあれば京都の町中を散策しております。歩くという移動手段はお金がかかりませんし、時間が十分にあるのであれば最強です。自転車でもいいのでは、と思う方もいらっしゃるでしょうが、自転車は乗りながら音楽を聴けないのが難点です。好きな音楽を聴きながら黙々と歩くというのはとてもいいものでございます。皆さんも時間があれば是非。


 つらつらと思うままに書いていると、なんだかんだで1000字を超えるものですね。最後に、つい先日遅すぎる初詣に行った上賀茂神社の写真で締めようと思います。ゆくゆくはいいカメラを購入して、歩きに行った先の景色を写真におさめたいものです。 f:id:karami7917:20210124001105j:plain