ダイコンの雑記帳

けんきうをしている。基本日記。偶に布教したり推しに狂ったりするかもしれない。

自由律と蛇足

幸せの後には必ず不幸が来るなんて嫌だけど

不幸のあとに幸せが来ないなんてのはあまりにも希望がないから

やっぱり幸と不幸は、釣り合っていた方がいいんだろうな


ホープパンクというジャンルを知りました。最近。

en.wikipedia.org

冷酷で絶望的な世界の中で、希望をつかみ取ろうとする物語。そう説明されると以前から人気な気がしますね。

冷笑主義や諦観が蔓延する現代で、希望を持ち続けることが「パンク」だなんてあまりにも悲しいですが、私もそういう話は好きです。

私は現実においても、悲観や冷笑には飲み込まれたくないと思っています。

すなわち、たとえ現実に打ちのめされたとしても、どこかで自分はまだまだやれると思っているし、成長できると信じています。ここが限界だなんて思わない。

一方で、社会や世界に目を向けると、現実を見捨てて殻にこもりたくなるような出来事がたくさんあります。最近は特に多くなっている。 ごく少数の人たちの利権や功名心、保身のために多くの人が犠牲になるという出来事が増えています。 イデオロギーを叫んで、対立を煽る人々がいます。

でも、そんな社会のなかでも、人々の連帯や、思いやりの心が無意味でないと私は信じています。 平等や自己実現をすべての人が享受できる社会が可能だと信じているし、そのために声を上げることには意味があると思っています。 そういう真の強さを、私は持ち続けたい。

こんなもんだと見切りをつけて、自分も社会も切り捨ててしまうなんてつまらないじゃないですか。

皆さんも、ホープパンクになりましょう!

自由律

最近気が付いたことがある。

実は世の中の多くの人は、矛盾するということをそれほど気にしていないのではないか。

言行不一致で平気な人がいる。昨日と今日で言うことが反対になっても、気にしない人がいる。

言葉は思考の結果で、思考は自分の核になるものだと思う。

自分の核をとっかえひっかえして、あなたは自分が保てているのですか?

スワンプマンの裏返しみたい。


矛盾しない自己。つまり同一性を保つ自己というのを、気にするようになったのはいつからだろう。

きっとそれは高校生の時だ。

家族からの信用を失う、取り返しのつかないことをした。(暴力とかそういう類のものではなかったけれど。)

それで、信頼がいかに崩れやすいものかを知った。

信頼を取り戻すために、誠実な人間にならなくてはと思った。

言ったことはきちんとやるとか、コロコロ言うことを変えないとか。それはつまり、一貫した考えをもって行動できる人になることだ。


大学生になってから、人と向き合うとはどういうことか考えるようになった。(きちんと向き合うというのも誠実さの一つだ。)

そのためには、いろんな価値観を理解できるようにならないとと思って、本を読むようになった。

いろんな考えを取り込めば取り込むほど、見える世界は広がるけれど、考えることも多くなる。

複雑なものを複雑なまま受け入れることが必要だけど、すべてを考慮することは現実には不可能だ。

欲しくもないのに情報の濁流が入ってきてしまう現代では、一つ一つに心を砕いていられない。


最近、私の考えの多くは、インプット情報、アウトプット感情の形だ。

ニュースをみて「おかしい!」と怒ってみたり。もちろん論理的に考えもするけれど、まず初めに感情が来る。

だから、情報への感度を高めすぎると、感情の浮き沈みが激しくなって、とてもしんどい。

たぶん、情報の処理と感情を切り分ける訓練をしなければいけない。とても疲れる。


疲労のせいか、最近はずっと頭が重い。

何か大きな塊が、頭の中に入っている感じ。

一度溶けて濾過されれば、この嫌な感じもなくなるだろうか。

もう一度人間の形に凝固できるかは知らないが、何ならそのまま地面に滲み込んでしまってもいい。

寄り添うということについて

2月28日、アメリカとイスラエルがイランに対して攻撃を仕掛けた。 いかに核開発を行っている脅威であったとしても、交渉中の相手に対し不意打ちの攻撃を行うというのは許されないし、 アメリカ国内に対しても正当なプロセスを踏んでいないもので、正当性があるとはとても思えない。 なにより、落としどころが見えない今、現体制が崩壊しても次に安定する体制がつくられなければ、 国の混乱によって苦しむのはイランに住む普通の人々である。 また、今回の攻撃では軍事施設とは関係のない小学校も被害にあっており、亡くなった子供たちのことを思うと胸が張り裂けそうな気持になる。

このような前置きをしたうえで、つぎの話をしたいと思う。

私の父の職場に、イラン出身の人がいる。 正確に言えば、父がともに研究をしている人だ。 日本に住んで数十年になる。

私自身は一度しか直接会ったことはないが、兄の指導教員であったりと、縁が深い人だ。

彼の両親はイランに暮らしている。アメリカとイランの関係がそれほど悪くなかった頃は、帰省することもあったそうだが、 最近はそれも難しくなっているらしい。

今日、父が帰ってきて、今回の戦争について彼と話したと言っていた。 両親と連絡がつきづらい状況ではあったが、妹を介して安否が確認できたらしい。それはよかった。

だが、次に父から出てきた言葉を聞いて、違和感を覚えた。父によれば、彼に対して、 「今回の攻撃はトランプの国内問題の目くらましであり、けしからんことだ」と言ったらしい。 それに対する彼の反応を、父は話さなかった。

両親が戦争の当事国に住んでいるということは、彼もその戦争に巻き込まれているようなものだ。 その彼に対して、父の物言いは、寄り添うことになるのだろうか。

日本に住む我々は、今回の戦争によって受ける被害と言えば、せいぜい石油価格が上がって生活が苦しくなるというようなことだ。 一方で彼は、自らの両親の命が問題なのである。 その彼に対して、父の物言いは、彼の心を慮ったものだっただろうか。

私にはそうは思えない。それは単に父の溜飲を下げるためだけの物言いだ。 戦争の当事者の心は、戦争に巻き込まれた私たちには決して理解できないと思う。 それがたとえ、家族が巻き込まれたという人の心であっても。

不当な攻撃をする相手に対して、声を上げることは必要であると思う。 日本社会においても、今回の攻撃に対して、アメリカを糾弾する声が広がることは大切だと思う(これは日本政府が声を上げるべきかというのとは別の問題である)。

一方で、被害を受ける当事者に対して、戦争を起こした国はけしからん!と直接言うことに、何の意味があるのだろうか。 彼らの思いは、彼らにしかわからない。特に、イランでは反体制派の人々は弾圧され、自由にモノが言えない環境であった。 その指導者であったハメネイ師の殺害という出来事に対しては、複雑な気持ちを抱くだろう。 喜ぶ人もいれば、あるいは、それがアメリカの手によって行われるべきではなかったと思う人もいるだろう。

だから、私たちは、軽率な発言はできないと思う。 必要なのは、彼らの話をよく聞き、その思いに寄り添うことではないだろうか。 私たちの思いをどれだけ彼らに話したところで、それは彼らに対して安心を与えないのではないだろうか。

そのようなことを考えている。皆さんは、どう思いますか。

最近読んだ本について

今回は茶化しはなしだ

ガザとは何か

www.daiwashobo.co.jp

この本を読んで、何か声を上げなければと思わない人はいないであろう。私もその一人だ。

2023年10月から始まったイスラエルのガザへの侵攻。それから2年と4か月がたっている。 日本国内での報道は、2025年10月の停戦合意以降、ほぼないといっていい状況に思う。 そんな中で、今一度ガザに住むパレスチナ人の人々が置かれている状況を頭に刻み込むためにも、この本はすべての人が読むべきものだと感じる。

読了後、最初に湧き上がってきたのは、このような悲惨な状況を放置している国際社会への怒りだった。 国際法に違反する非人道的な兵器がためらいもなく使われ、封鎖により食料供給も閉ざされ、支援団体が締め出され、 根絶やしにされようとしているパレスチナの人々のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。

そして、長年イスラエルがパレスチナに行ってきた行為は、まぎれもなくジェノサイドと呼ばれるものであることを、私たちは知らなければならない。 今回の攻撃だけでなく、それまでにも、イスラエルはガザを封鎖し続け、パレスチナの人々の生命・文化をことごとく破壊するために行動してきたことを。 今回の攻撃の規模についても、攻撃の対処に関しても、10月7日のハマスによる越境攻撃への報復というにはあまりにも過剰であり、まったく正当性のないものだ。 なにより、ガザに住む人々はすべてハマスだというレッテルを貼り付け、無差別な殺戮を繰り返すその様は、とても人のする行為とは思えないほど残虐だ。

さらに、日本に住む我々も(少なくとも消極的には)その行為に加担しているということに、驚愕した(日本年金機構はイスラエルの軍事企業に多額の投資をしている)。 報道に関しても、ハマスの攻撃を起点として、その報復という形でイスラエルの攻撃を伝えることは、イスラエルの主張に立った偏ったものである。 テレビや新聞の報道はそのようなものばかりであり、我々は歴史的な文脈をもとに今回のことを見なければ、自然とイスラエル側の主張を浸透させられる環境にいる。

私たちが認識しなければならないのは、パワーバランスが偏った対立関係において、「中立」という態度そのものが既に強い側に立った視点だということだ(対談にて書かれている)。 線分の分割のイメージで考えるとわかりやすいように思えるが、パワーバランスに比例して分けられた領域の境界にたったとき、すでにその立ち位置は強い側に有利な立ち位置になっている。 パレスチナの問題でもそうであり、「中立」という立場で判断を保留し、無関心になることは、イスラエルを利する行動である。 だからこそ、このような非人道的な状況が続いているパレスチナ問題に対しては、私たちが声を上げる必要がある。

と、ここまでの文章を読んで、あまりにもパレスチナに肩入れしすぎなのではと思ったあなたにこそ、この本を読んでもらいたい。 まずは現状を知ることから始めよう。

孤立・分断・熱狂

修士論文公聴会が終わって一息ついています。ところがどっこい。準備している横で色々起きてましたね。とんでもねぇ国に来ちまったぜ★

この度の選挙戦を見て、現代社会の危うさを感じているダイコンです。

最近の選挙では、SNSの活用が本格化してきています。TwitterYoutubeのShort、TickTockなどで演説の動画が頻繁に回ってきたり、支援者の発言が流れてきます。 SNSの積極的な活用は、立候補者の主張を有権者に直接伝えるには有効であり、また、選挙に興味を持つ人を増やすという意味ではいいことだと思います。

一方で、最近の選挙では、嘘を含んだ演説を平気でする立候補者もいます。 特に短期間の選挙戦では、ファクトチェックや、その周知をすることが難しく、結果的に嘘をついた立候補者にペナルティがなくなっています。 このような状況では、「嘘をついても支持を集めたもの勝ち」になってしまっています。

さらに、選挙を通じて分断が深まるということが増えたように思います。 主張の違いではなく、それまで隠れていた差別意識や対立が増幅され、一気に噴き出しているという意味です。 これには立候補者の一部も加担していて、特に演説中の嘘が差別や対立を煽るようなものであることが多いです。 選挙のたびに、インターネットの空間は暴言で溢れ、見ているのが辛くなります。

さて、今回の選挙では、このような分断を煽った選挙戦を行った陣営が歴史的な勝利を収めました。 また、そのような戦い方をする政党自体が増えたように感じられました。 ということは、多くの陣営がこの戦法が有効だと認識しているということでしょう。

対立を煽れば支持が集まる。このような状況は何によって作り出されているのでしょうか。

私は、その原因の一つとして、生活の共同体が崩壊して、孤独になる人が増えていることが挙げられると思います。

現代の社会は、社会人になってからはコミュニティから切り離された生活をする人が多くなっているのではないでしょうか。 都市部に人が集まり、マンションや新興住宅地に住む人が増えると、周囲の人々とのコミュニケーションは取りにくくなります。 特に、アパート住まいで引っ越しの多い人などはそうでしょう。 また、マンションや住宅を購入して住んでいる人でも、近所付き合いをするのが面倒だという人は、町内会などには積極的に参加しません。 さらに、ワークライフバランスを重視する人が多くなり、以前よりは飲み会などのコミュニケーションの場も減っているのではないでしょうか。 上辺だけの付き合いだとしても、その関係がさらに薄くなる状況があります。

人々がこのように孤独になると何が起こるでしょうか。

一つは、他人に対する想像力がなくなっていきます。 自分と異なる価値観や、立場の異なる人と接する場がなくなると、他の人に対して思いをめぐらすことができなくなります。 つまり、社会問題になっている事柄、特に、不利益を被っている少数の人々への関心がなくなり、そのような問題に対して無関心になります。

もう一つは、政府に迎合的になります。 人は、一人では権力に立ち向かうことはできません。もしそれができる人がいるなら、よっぽど精神の強靭な人、何か信念を持った人でしょう。 多くの人はそうではありません。 従来、社会をよくする方法として、労働争議などでは、力を持たない人々が団結して権力を持つものと交渉を行ってきました。 「お前の代わりはいくらでもいる」社会では、代わりとなるすべての人が一斉に声を上げることでしか不正に対して抵抗を示すことはできません。 しかし、現在、例えば労働組合の力は、以前に比べれば格段に弱くなっています。 原因は、派遣労働や中途採用の増加などいろいろあるでしょうが、政府の長年の取り組みが実ってきたというところでしょうか。 団結が阻害され、孤独になると、人々から抵抗の意思は失われていきます。 そうなれば、権力を持つ側に意見を合わせたほうが人々は安心できます。 なぜならば、服従を示していれば攻撃の対象にはならないからです。

さらに悪いことには、政府に迎合しながらも日常生活に不満を抱いている人々は、そのはけ口として弱者に攻撃的になります。 体制に不満をぶつけられないとなれば、それとは対極にいる社会的な弱者に矛先を向けるしかありません。 例えばそれは高齢者であり、がん患者などの高額医療費制度を使わなければならない人であり、障害をもつ人々でもあります。

SNSが発達した現代でさらに状況を悪くするのは、このような声が拡散されやすくなっていることです。 物議を醸す発言はすぐに注目を集め、広がり、批判も殺到しますが、一方で共感する人も現れます。 政治家もこのような特徴をうまく利用し、攻撃的な言動で注目を集めようとします。 普段はモラルによって言いにくいことを、「バッサリ言ってくれる」政治家に人々は熱狂し、支持が集まってしまうのです。

生活の中で従来の共同体が崩れたことは、社会の中により多様な価値観を生み出すことにつながったはずです。 しかし、人々のつながりが切れてバラバラになってしまったことにより、孤独感が増し、現在のような分断が広がる時代になってしまったのではないかと私は考えます。

しかし、この問題をどうすれば解消できるのか私にはわかりません。 一つは、SNSでの選挙活動について規制を強めることがあるでしょうか。 選挙期間中は、選挙活動に関する投稿や動画に関して収益化を禁止するなどすれば、必要以上に過激な主張が拡散することを防げるのではないかと思います。 一方で、どのような内容が規制の対象なのかについては慎重に議論する必要がありそうです。 もっとも、今の政府にとってはこの問題は緊急を要する議題ではなさそうなのですが…

我々一般市民にできることは、政治家の主張に懐疑的になり、裏をとること。 嘘を拡散するような政治家には投票しないことくらいしかなさそうです。 情報リテラシーが求められているということです。

どうすればこの嫌な傾向をなくすことができるのかわからないですが、少なくとも私自身は、冷静に判断のできる有権者でありたいと願うばかりです。

ここまで書いたところで、SNSにありそうな攻撃的な反応をチャッピーに出力してもらいました

・「全部妄想で草。負けた側の言い訳にしか聞こえないんだけど?」

・「“分断が〜”って言う人に限って自分が一番分断してるんだよな。」

・「孤独が原因とか、ずいぶん上から目線だね。国民を見下してるの気づいてる?」

・「嘘って誰が決めるの?自分と意見違ったら全部デマ扱い?」

・「SNS規制しろとか言い出すあたりで察し。言論弾圧したいだけでしょ。」

・「結局“自分の気に入らない政治家は悪”って言ってるだけじゃん。」

・「選挙で勝った=民意。それが気に入らないなら民主主義向いてないよ。」

・「高齢者や障害者をダシにして感情論に持っていってるのが透けて見える。」

・「情報リテラシーとか言ってるけど、まず自分が偏ってるの自覚したら?」

・「SNSのせいにしてるけど、単に国民があなたと違う考えを持ってるだけでは?」

・「こういう“私は冷静です”アピールが一番信用できない。」

・「労働組合が弱くなったのも政府のせいって陰謀論ですか?」

・「分断が嫌とか言いながら、しっかり敵味方に分けてて草。」

・「長文書いてるけど中身ふわっとしてる。具体策ゼロ。」

・「“政府に迎合してる”って決めつけがもう危険思想なんよ。」

・「嫌なら投票行って終わりでしょ?なんで社会のせいにするの?」

・「孤独だから差別が増えるって…そんな単純な話なわけない。」

・「自分と違う意見=煽りって発想がもう排他的。」

・「こういうインテリ気取りのブログが一番分断生むんだよ。」

・「で、あなたは何か行動してるんですか?」

おお、怖い怖い。皆さん”いけず”ですねぇ

2025年を振り返る

只今23:25です。年内に書き終えることができるのでしょうか。文章は常に見切り発車。

さて、継続的にブログを書くようになってから1年以上が経過しました。今年も1年を振り返っておきたいと思います。

研究生活

これが本厄の力か。

研究の方は思うように進まず苦しんだ1年でした。というか今も苦しんでいる。

まず前半。3月に応用物理学会に参加しました。初めての口頭発表で緊張したけど、質問もいくつかもらえました。 自分の研究に興味を持ってもらえるということが結構れしかった思い出。 同期3人で学会に行くのは2回目で、もうないかもしれないけれど、やっぱりこの同期は安心するなぁとしみじみ。

5月は学振の応募であたふたしていました。 うちの研究室の方針として、書いては持っていきを繰り返すことでよくしていくというのがあるので、申請書を書くのは本当にしんどかった。 そもそも自分が、今の研究から発展させてどこに行くべきなのかちゃんと分かっていないというのもあり、とても悩みながら書きました。 そんななんで、やはり結果ダメでした。採択率7%なんて通るわけないやろ! でも、今見返すとなんだか中途半端な感じ。来年のDC2はもっとちゃんとした申請書にしたいです。

6月から8月は万博の準備でてんやわんやでした。 実は去年の12月からちまちまと準備は始まっていたのですが、学振の提出が終わったあたりから本格的に準備が始まったという感じ。 自動化プログラムの作成のために、長時間一人でだだっ広い準備室で作業をしているときはほんとに気が変になりそうだった。 本番までに完成させられたのは奇跡じゃなかろうか。未払いの勤務分の給料を払え!

8月の本番の展示が終わったときにはなんだか達成感がありましたが、今振り返るとやはりあれを学生にやらせるのは変です。 業績にもならないのにどんだけの時間を費やされたのか。しかもそれを知らぬボスはなんだか満足げに来年も展示をやるかなどと言っている。 マジで、なに。

9月は物理学会に参加しました。応物とは雰囲気がだいぶ違いましたが、こちらでもいくつか質問をいただきました。 オーストラリアに旅立った先輩と、最後に一緒に学会に参加できたのがよい思い出です。 あと、広島はいい街ですね。

9月以降は腰を壊しまして、思うように体が動かずきつかったです。 実験できないと研究が進まないが、長時間実験をすることは難しい体調でした。 今は徐々に徐々に回復してきています。 はやくよくなってほしい。

10月は、香川へ研究のお話を聞きに行きました。私の研究にも大いに関係することで、実験系の見学などもできてとても勉強になりました。 あと、香川のうどんはおいしかったです。

試練の12月。修論を書かないといけないし、そろそろ論文の方も進めないとというのでボスに相談に行きましたが、 このままではねぇ…という話に。いや、あなた半年前はこれで書きなさいとおっしゃってましたやん。 彼曰く、論文にしてみないとわからないこともあるから。とのことでしたが、判断を下す材料は半年前にすでに彼のもとにあったはずなのに。

そして、急ピッチで進捗を生むために年末も実験をさせてほしいとお願いしたら、先生がいないのでアウトとのこと。 言葉と対応を一致させてほしいものです。振り回される側の心はきっと彼には分らないのでしょう。 こういう上司になってはいけないと、反面教師として大いに学習させていただく所存。

とはいえ研究を進めないといけないのは私自身。年が明けたらまた気合を入れなおして頑張ります。 今やっていること以外にも実験してみたいことがいくつかあるので、それも並行して進めたいですね。

私生活

今年は本をたくさん読むようになりました。1か月に2~4冊。来年もこのペースで読んでいきたい。

7月に行った山の辺の道はとても楽しかったです。久しぶりのしっかりしたハイキング。 道自体もとても歩きやすく、写真もたくさん撮ることができました。 腰が治ったら、また歩きに行きたいですね。

12月。年末にAmazonのSwitch2の購入招待が当たりました。どんなタイミング。 せっかくなので買うっきゃないというので買いましたが、ノートPCの新調と合わせて出費がヤバい。 さらにコミケの委託販売でいくつか買ったので、合わせて出費がヤバい。 皆さんは購入は計画的に。

そんなこんなで23:54。年明けが迫っているのでいったんこの辺でお開きにしましょう。 来年はいい年になりますように!いや。ホント。マジで。

皆さんよいお年を!!!

複雑なものを複雑なまま受け入れることこそが強さだと、私は信じているのだよ

言いたいことは表題だけだ。じゃあな! 

さて、さっきそこに居た人々はどっかに行ったみたいだな。じゃ、あとは好きに喋るんで。

大衆扇動的な政治家は怖いねというのを最近ひしひしと感じる。 いや、以前から他の国ではちらほら見られていたし、実際にそういう人が大統領になったりしていたわけだが、 今や私のいる国においても、そういう政治家が目立つようになってきた。

今読んでいる途中であるが、民衆などの人々の塊、群衆が集団としてどのようにふるまうかを論じた古典に、ル・ボンの「群集心理」がある。 ここでいう群衆は、一つの場所にいる必要はない。同じ主張で集る人々のことだ。 この本の最初の方に書かれているが、群衆は暗示を受けやすく、また個々人は思慮深くとも、群衆になった途端に衝動的な行動を行うことになる。 だから、扇動家たちのことばは断定的で短く、さらにそれを何度も何度も繰り返すことで群衆に暗示をかけようとする。

最近の選挙戦において、SNSの利用が注目されている。 政党の情報が得やすくなるとか、テレビや新聞などのメディアを見ない人にも政治への関心を持たせることができるという利点があるのは確かだ。 しかし、私は政治家の言葉がフィルタを通さずに人々に届きやすくなることは、必ずしもいいことではないのではないかと思う。 以前から街頭演説では政治家が人々に語り掛け、演説がうまい人物が人気を集めやすかったのは確かだ。 ネット上での活動も、その延長線上だと考えれらるかもしれない。

一方で、明確な違いは、現代のネット空間にはフィルターバブルが付きまとうという点だ。 フィルターバブルとは、SNSや検索サービスにおいて行われている、利用者の関心がありそうな話題を出す頻度を高くするという仕組みだ。 これは、選挙の際には、一度見た政党の主張が何度も繰り返し出てくるという状況を作りだす。 さらに、各政党・政治家の直接の声だけでなく、それを賛美する人の声も届くようになる。 一方で、その政治家に否定的な人の声は聞こえずらくなる。ほとんど聞こえてこないといってもいい。 何度も同じ主張が繰り返されるというのは、群衆を暗示にかけるたえめの一つの条件だった。

さらに、最近の選挙戦ではショート動画が多用されるようになってきた。 生配信や、あるいは国会での言動を切り抜いて短くまとめた動画たち。 動画を短くするためには、そこの言動に至るまでの経緯や、議論の内容は邪魔になる。 断定的な内容にならざるを得ない。これでもう一つの条件もクリアしてしまった。

以上を鑑みると、ネット上での選挙活動は、非常に群衆に暗示をかけやすい状態になっている。 このような環境下で、こいつが悪者だ!とか、この制度こそ諸悪の根源だ!というような主張が何度もなされれば、 人々は「そうだったのか!じゃあそれを正そうとするこの人は正義の人なんだな!」と暗示をかけられる。 支持が信仰にとって代わる。つまり、この意見は私の意見に一致するからこの人を支持しようというのではなく、 この人が言っていることはすべて正しいからこの人を支持しようと思うようになる。

そうなってしまえば、主張の根拠は問われない。デマであっても、過激な言動であればあほど人々は熱狂し、支持を拡大できる。 また、もしある言動がデマだったとして、それが検証されるのは選挙後にならざるを得ない。選挙期間というのはそれほど長くない。 ファクトチェックをする機関があって、嘘だという判断がすばやくなされても、フィルターバブルによって支持者たちには届かない。

根拠のない過激な主張は、たいていはある集団(それも力を持たない少数の集団)を悪者にしたものであり、 それは差別を助長させ、時にその集団に危害を加えるようになる。 国民は分断される。強い国家を主張しているはずの政治家が、逆に国家の不安定さをもたらしている。

批判の矛先は他国に向けられることもある。しかし、国際的な交流や貿易が盛んになった現代において、 批判した国と全く無関係に国民が生活を送れるなどということはあり得ない。隣国ならばさらにそうだ。 国を守るといっている政治家が、逆に国に危険をもたらしている。

このような扇動家たちに対抗する唯一の手段は、個々人が物事を単純化しないように気を付けることだ。 断言された主張には論理がなく、また論理があったとしても仮定が間違っていたり、ある側面を考慮していないことがある。 この世界の物事は多面的で、複雑だ。 誤った道に進まないためには、複雑なものを複雑なまま受け入れることが必要だ。

私は、正義や悪は集団によって変わる相対的なものであるから、正しさなんてない。と言いたいわけではない。 各個人に、各個人が信じる正しさがあってよいし、集団が共通して持つ正しさがあっていい。 しかし、その正しさは絶えず検証され続けなければならない。 他の人の意見や、他国の事情を知ったうえで、私たちの信じる正しさが、本当に正しいのか考えなければならない。

この作業はとても負担のかかることだ。自分と異なる意見の中には、自分が不快になるようなものもある。 様々な情報から判断を下すこと自体が、負担になる。 しかし、それができることこそが強さだと、私は信じている。

ある集団を悪者にしたり、他国に喧嘩を売ったり、舐められないようにしたいというような見かけだけの強さではなく、 強い芯をもって、現実の複雑さを受け止め、その複雑な現実の中で正しい行動とは何か、 我々は何が譲れなくて、どこで協調できるか考え続け、理性をもって世界と関わりたい。 これが、私のささやかな願いである。